体で歌うとはなんぞや

音楽教室でCoccoの「絹ずれ」をレッスンしています。Coccoは音楽誌のインタビューの中で「私は筒だから歌わないとわかんない」「筒で歌っているだけ」と言っていますが、この、筒というのは、おそらく「自分の体」とか、「体の奥底のど深いところとつながっている状態」か「頭のさらに先のどっか遠いところにつながっている状態」であるだろうと私は理解しようとしていたのですが、いまいちよくわかってませんでした。ほんで、体とか呼吸とかどっかとつながって動かされて歌う人っていうのは、なんか特別な特殊能力を持った選ばれた人だと思い、私には無理だなぁとか思っていました。動物っぽいカオスな感じがして巻き込まれるのやだなぁとかとも思ってました。

本日、歌のレッスンがあり、最後に先生が、ビヨンセのミュージックビデオを見せてくださって、ライブでビヨンセが歌うさまを見た私は、体で歌うっていうのは、間の雰囲気をつくるってことだと思いました。そして、先生は体で歌うということは「書道に似ていますね」とおっしゃい、私もたしかにそうだと思いました。なんどもCoccoの歌う「絹ずれ」を聞き続け、最近、Coccoのこの歌って、なんか書の大家の書いたものすごい達筆の書みたいな感じだと思っていたところだったのです。

書道では、たっぷり墨を含んだ筆で紙の上に点をうち、紙に文字を書いて、最後はらってきれいに抜いて、ふっと筆を紙から上げるって動作をしますが、歌で声を出すっていうのはこの紙の上に文字を書くってことです。文字を書いている間は声がでていて、次の文字を書くまでは声は出ていません。筆が生きている感じっていうのは描かれた墨の文字の強弱とか太さの感じだけでなく、紙から筆が持ち上がって次の文字にいく、その筆の動きが分かる感じなんだろうと思うのですが、歌でそれをやるということです。

本日のレッスンの帰り道、絹ずれを聞いたらCoccoの呼吸を感じました。この歌って、こんな官能的やったっけ?とぎょっとしました。無音の間に、声から続いて次の声にまで残る雰囲気がある。

まるで頭のてっぺんからおへそを超えいわゆる丹田の下あたりまでが花弁の百合が、開いたり閉じたりしているような感じでした。

今日のレッスンは、ものすごく背骨がしなった感じがして、下腹が伸びてました。おそろしくのびておそろしくしなだれ、体が背骨にしなだれかかっていたのにレッスンが終わってもまったく痛くありませんでした。むしろすっきりしました。去年ぐらいまでだったら、こんなに背骨がしならなかったし、それを感じることもなかったので、寛先生のところで習っている事が、現実的に歌う場でのフックにひっかかった感じです。嬉しかった。

 

体で歌うということへの考察を長々書きましたが、最近それをもっとも感じた映像を貼っておきます。

『Cu-Bop』という音楽ドキュメンタリーの予告編です。0:40あたりから始まる、ロランド・ルナという人の弾くピアノが、音だけでなく体とか指の動きとかなにからなにまですべてが音楽でうっとりです。雰囲気が優雅で官能的でキラキラしてる。この映画、関西でも上映してほしいなぁ。


予告第二弾・キューバ音楽ドキュメンタリー『Cu-Bop』 - YouTube